「多様化」「個性の尊重」「多様な働き方」と言われて久しくなりました。
「みんなちがって、みんないい。」
詩人・金子みすゞが残した金言です。
ですが、不登校という選択はいまだに「問題」とされる現実があります。
不登校の子や親がここまで肩身の狭い思いをする必要があるのか?
ハガネメンタル的な視点から考えていきたいと思います。
学校に行く=善、不登校=悪という古い構図

義務教育を小・中・高の学校機関、と定義づけているのは、教育基本法です。
成立はなんと1947年。
2006年にようやく一部改正がありましたが、改正されたのも2006年。今の状況を正確に反映しているとは言えません。
かん2006年って、スマホがまだ登場していない時代だよ!!!
法改正には慎重さが求められるとはいえ、時代にそぐわない部分があるのは明らかです。
1947年には、もちろん義務教育は、ほぼ唯一の教育機関として機能したことでしょう。戦後まもなくの大混乱の時代だったでしょうから。
でも、今はどうでしょうか?
2006年の改定部分ですら、生涯学習の推進や、家庭教育、幼児教育の重要性が明記されているのです。
もはや、教育の場は学校だけではありません。
学校への出席=成長、不登校=逃げという単純図式に限界が来ていることは明らかです。
「多様化」は都合のいい範囲でしか認められていない
社会が「多様性」を掲げる時、それは「許容できる範囲の違い」に限られています。
つまり「安全に見える個性」だけ歓迎しがちです。
もちろん、法に触れる行為は許されません。
しかし、何も罪を犯していない人が排斥されてしまう事案は後を絶ちません。
たとえば同性愛。
同性愛であることで病気に感染するわけではありません。誰かを法外に傷つけるわけでもありません。単なる指向であるにも関わらず、根拠のない偏見で、同性愛者は長らく虐げられてきました。
アメリカの活動家、Stephen Fryの言葉を引用しましょう。
我々が対処すべきは、道徳的にも違反的にも何も非がない人々の人生を蝕む無知と恐怖と偏見であり、病んでいるのは社会の方だ。
-2013 BBC『 Stephen Fry: Out there』より
不登校も根元の部分は同じです。
「道徳的にも違反的にも何も非がない人々」に対し、社会は「ルール違反」「忍耐が足りない」「育ち方に問題があるのでは」と不寛容に決めつけます。
不登校という「制度への不参加」はいまだにネガティブな印象を持たれてしまう。
それは、根拠なき偏見、思い込みです。
学校以外にも、学びとつながりの場はある
もはや、現代は戦後ではありません。
フリースクール、通信制、地域コミュニティ、オンラインサロン…学ぶ機会や機関も多様化しています。
「学校」という、自分に合わないコミュニティに嫌々参加して自分をすり減らした先に、果たして「成長」はあるのでしょうか。
ここで、テスラCEO、X(旧Twitter)会長として有名な起業家、イーロン・マスクの例を紹介します。
イーロン・マスク 学校からの逃避が後の成功に繋がる


世界一有名な起業家、イーロン・マスクも不登校の生徒でした。
幼少期より感覚が鋭く、言葉選びが独特、集団行動も苦手だったマスクは、学校でいじめの対象になってしまいました。階段から突き落とされるなどの酷いいじめは数年続いたそうです。地獄です。



私が親なら、1日で「もう行くな」って言うね!
学校だけでなく、家でも父親のモラハラなどで居場所がなかったマスク。
逃避先として選んだのは図書館でした。
学校の図書室で、彼はさまざまなジャンルの本を読み漁り、知識を貪欲に吸収します。知識があれば、今の苦しみから抜け出せるかもしれない、抜け出したい…知識にすがるような心境だったかもしれません。
その後の成功は、世界が知る通りです。20代前半で起業した彼は事業を次々と成功させ、若くして一生困らない額の資産を手に入れます。
「かわいそう」なのは一体どちらか?


マスクを筆頭に、学校へ行かずとも成功している人、豊かな人生を送っている人などいくらでもいます。
日本では不登校を「かわいそう」と憐憫の情で語る風潮が根強いですが、マスクの成功を「かわいそう」という人はあまりいないと思います。
むしろ、マスクから「かわいそうだね」と言われかねない不自由な境遇にあるのは「普通に学校に行っていた普通の人たち」のほうなのではないでしょうか?



私を含めてね!!!
マスクのような「かわいそう」な不登校を免れた私たちは、果たしてマスクより豊かな人生を過ごせているでしょうか?
嫌々満員電車で通勤して、無能な上司に振り回され、残業をし、クレーム対応に追われ、お金がないと嘆き、時間がないと嘆き…日々神経をすり減らしながら日常を送る「普通の人」たちの人生は、果たして不登校の子どもたちより豊かなのでしょうか?
不登校は「別ルート」という考えかた
学校へ行く行かない、だけでは、人生は決まりません。
学ぶこと、関わることは「学校という箱」だけで完結しないのです。
不登校とは、孤立ではなく選択。そんな時代になっても良いように思います。
例えばフリースクールと一言で言っても、昨今は多種多様な、魅力的なスクールが次々と展開されています。
自治体も動き始めています。
下に一例を挙げておきますね。
- 生徒評価を数値でなく文章で伝えるスクール
- オンラインでトップレベルの教師陣の授業を配信するスクール
- 自治体が、質の高いフリースクールを認証し、運営経費の支援を実施
また、学校より分かりやすい授業が、今は動画で見られる時代です。
自力で学習計画を立てるのは大変ですが、学校へ行かなくても良質な授業は受けられますし、外でも家でも、他者とのコミュニケーションは取れる時代です。



頭脳労働は在宅で完結する時代!
そもそも「同年齢の子が何十人も1か所に集い行動を共にする」機会なんて、社会に出たらありません。長い目で見れば「学校のほうが異様」と捉えることもできます。
「右へ倣え」の画一的な軍隊教育が合わない生徒なんて、山のように存在するに決まっています。
「学校にいけない」ではなく「学校以外を選ぶ」という選択。前向きなものであるべきです。
まとめ 不登校は悪でもないし逃げでもない
みんなちがって、みんないい


多様化とは「見た目や働き方」だけでなく「生き方のリズム」も含め受け入れること。
朝起きられない人、集団行動が苦手な人、学習スピードが速すぎる人、遅い人。
いろんな人がいるんです。
今の学校教育には、いろんな人の特筆すべき個性を潰してしまう側面があります。
例えば発達障害の特徴として「ひとつのことに異様に集中する」というものがあるのですが、裏を返せば「天才」ですよ?ひとつのことに集中して何時間も、大きな熱量で取り組めるのです。特定分野のプロフェッショナルになれる可能性が「普通の人」より高いということです。
それなのに「扱いづらい」「集団の中で浮いてしまう」という大人の都合だけで、衝動を抑える薬を飲まされる子までいる始末です。「社会の不寛容」そのものです。社会が犠牲者を生み出しています。
日本から「天才」が生まれにくい背景として、こういった不寛容なシステムが原因になっていることは否めないでしょう。
だれもが学びたい形を選べる社会こそ、本当の多様化なのだと思います。
そして、誰もが学びやすい形を選んで学び、活躍していける社会はきっと、今より素敵な、良いものになるはずです。
不登校はダメじゃない
総合すると、不登校は悪いことではありません。
負い目、引け目を感じることはありません。
悪いのは、周囲の風潮に流されて不登校に負い目を感じ、腐ってしまうことです。
学びの場なんて、そこら中に溢れています。
イーロン・マスクの例を取れば、世界の英知は図書館に詰まっているのです。
大事なのは、子どもがどんな環境を選ぶか、何を学ぶか。
学校が合わないのであれば、どんな環境を準備すればその子が輝くのか。
親だけに押し付けるのではなく、社会全体で前向きに考えていける…実際にそんな空気が流れて始めています。
今一度。



不登校は悪ではない!!ダメじゃない!!
断言して締めくくりたいと思います。
